「官僚制と公文書-改竄、捏造、忖度の背景」から見えてくる、現代にあるまじき非民主的構造の実情


政治に関していえば、2010年代後半はセンセーショナルな出来事の連続だったと言えます。
「モリカケ」問題や毎日勤労統計のデータ偽造など、国会には激震が走り続けました。

どうしてこんな問題が起こってしまうのでしょうか。
事の真相に近づくため、省庁に文書開示請求をしても、答えはきまって「不存在」。
開示がなされても、そのほとんどは紙一面黒く塗りつぶされた状態のものばかり。

一方、問題事案の過程を示す、職員の備忘メモの存在が明らかとなることもありました。
しかし、内閣側はそれを「怪文書」と言い放ち、一蹴する始末。

現政権の極めてごう慢な態度に、不快感を覚えた人は多いことでしょう。

「だいたい、霞が関の官僚ってどんなところで仕事しているんだろう?」
そう思った人にとって、「官僚制と公文書-改竄、捏造、忖度の背景」はおすすめです。

官僚が過程を軽んじる理由や、官僚が内閣に迎合する仕組みなど。
詳細な内実の解説は、元役人の筆者も思わずうなるほどでした。
そして、現行制度の「穴」を指摘し、今後の政治にサジェスチョンを与えんとする本書。

今回は、官僚制度との関係という観点で政治を説く一冊を紹介していきます。

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「官僚制と公文書-改竄、捏造、忖度の背景」について

「官僚制と公文書-改竄、捏造、忖度の背景」は、2019年に株式会社筑摩書房が発行した新書。

文書改竄(ざん)やデータ偽造といった、官僚たちによる度重なる不祥事の数々。
本書は、これらが国会を揺るがすまでの大問題となってしまった背景を解説しています。

その理由として挙げているのが、決定ばかり重視し、過程を軽んじる官僚特有の文化。
責任の所在を明確にしていない、現行官僚制を支える諸規則。
政権との関係上、骨抜きとなってしまった情報公開制度と公文書管理。
そして、権力集中の勢いが止まらない内閣官房と内閣府など。

加えて、政治が官僚制や情報公開制度などに与える影響と暴走のリスクを明言した本書。
政権運営を担う者の資質を問うことの重要性を説いています。

著者の新藤宗幸氏は、大学で教鞭を振るう行政学者。
我が国の行政、特に官僚制が歴史的エラーの上に成り立っていることを鋭く指摘します。

良かれと思って策定した様々な制度は、実は穴だらけだったということを教えてくれる本書。
大問題は、いつか爆発するリスクが今爆発しただけで、なるべくしてなった結果だったのです。

「官僚制と公文書-改竄、捏造、忖度の背景」とは何か

文書改ざんも、官の政への忖度も、いきなりポンと出てきた話ではありません。
長い間日の目を見なかったものが、何かをきっかけに現れただけなのです。

我が国のブラックボックスであり続けている、霞が関の中央官庁街。
何もかもが閉ざされた日本の中枢は、古臭い思想が今も息巻いています。

この閉鎖的な環境こそが、昨今の異常事態を生み出してきたと論じる本書。

そんな本書は、官僚制度と公文書管理制度、内閣の機能に焦点を当てて解説しています。
ここからは、不祥事の背景にあるカラクリについて、少し触れていきましょう。

前時代的な官僚制度

本書は第一に、現在の官僚制度は前時代的な代物だと批判します。
現行の制度は、戦後GHQによる不徹底な改革の果てが今に至るものです。

現在の官僚制度は、非民主主義的な側面を多く残しています。
その最たるものが、入口を分けた任用試験制度と、責任所在が不明確である点です。

国家公務員は採用試験を受ける段階で「キャリア」と「ノンキャリア」に分けられます。
キャリアとは、各省庁において幹部候補生となる者のことです。

入口時点で昇進可能性に差を付ける制度は、身分制そのものと切り捨てる本書。
不用意にエリート意識を植え付ける温床となっているからです。

また、霞が関の中央官庁は、民間企業との人事交流がほとんどありません。

閉鎖的な人事環境は、外部からの監視を遮るもの。
組織的隠ぺい体質が生まれても、何も不自然なことはないでしょう。

省庁は、その組織体系や通常の執務環境においても、閉鎖的です。

通常、省庁は大臣をトップに、局-課-係と細分化されています。
ここで問題なのが、局や課には所掌事務とその範囲しか定められていない点。
意思決定や問題発生時における責任所在が明確になっていないのです。

執務室は、大部屋に机が向かい合って並べられ、窓側には上役。
課の意思決定は、この大部屋内にいる全ての職員が共有し、その中で決められていきます。
誤った意思決定をしようとしていても、この環境下で止めることは容易ではありません。
黙殺され、活発な議論は捻じ曲げられてしまいます。

こうした環境が、意思決定の過程での作成文書を軽視する文化を生み出しているのです。

最近の官庁の不祥事は、運悪く噴出した結果だといえるでしょう。
加えて、政官の癒着関係と堕ちた官僚らの存在まで露呈する始末。

本書は、霞が関の閉鎖的で非民主的な環境の存在を明らかにしています。

これは、官僚や役人それ自体を非難しているわけではありません。
あくまで前時代的な官僚組織と、この現状に目を背けている態度を痛烈に批判しているのです。

公文書とは何か

先に、文書改ざんなどの不祥事の原因は古めかしい官僚組織がその一因だと述べました。
しかし、今現在、日本の公文書管理制度はきちんと法整備されています。

にもかかわらず、不祥事が相次ぐ理由はいったい何なのでしょうか。

その大きな原因は、現行の公文書管理制度と先んじて整備された情報公開制度。
本書は、この両者の制度が致命的な見落としをしていると指摘します。

公文書管理制度の根幹を担うのが、公文書管理法。
この法律が、適切な文書管理や保存、廃棄に関する基本的ルールを定めているのです。

公文書管理法は、その管理対象を「行政文書」と規定しています。
では、「行政文書」とは何か。
その定義をざっくり言うと、「職員が職務上作成または取得した文書」、とのこと。

これこそがまさに、問題となっているポイント。
「職員が職務上作成または取得した文書」の範囲が裁量判断に委ねられているのです。

例えば、決裁資料として作成してはいないが、個人の手持ち資料として作ったメモ。
意思決定として残る書類には入りませんが、上役への説明時には用いています。

実質決裁プロセスに用いているから行政文書だ、という指摘は正しいでしょう。
しかし、メモはあくまでもメモであり、決裁のバックデータ資料ではありません。
もっと言えば、このメモを決裁資料として残すかどうかは、職員の判断次第なのです。

法律は基本的に、解釈の余地を残してあえて広範囲な定義付けに留めます。
より具体的な定義付けは、その下の政令や省令で行うのが通常です。

この政令や各省令がいい加減でした。
文書の保存期間や廃棄基準は省庁ごとでバラバラ。
政令が基準となる考え方を示さなかったために、省庁間の横並びもとれていません。

各省庁は独自の考えで、文書を保管、処分していきました。
その運用は恣意的なものだったといえます。

つまり、都合の悪い文書は、「行政文書」にあたらないとして処分してしまえるということ。
これもまた、閉鎖的環境と秘密主義の結果でしょう。

とりわけ、公務員は意思決定時の過程で作られた文書資料を軽視します。
決裁資料とはならないため保存の必要がないと、処分してしまうのです。

行政の意思決定は、その影響力も少なからず大きいもの。
仮に、とある意思決定時に別の意思決定案と論戦したという経緯があったとします。
「お上」たる行政が示した意思決定に、「異論」などというスキがあってはいけません。
その頭でっかちなプライドが、決裁過程の存在を見せない方向に進めるのです。

形は出来上がっていても、実を伴わない現行の公文書管理制度。
本書は、法律制定時にすべき議論をスルーしてきたことをストレートに批判しています。
そして、そんな状況を改善しようとする動きが一向に現れないことにも憤りを隠しません。

知る権利とアカウンタビリティ

本書はもう1つ、我が国の情報公開制度についても論じています。

情報公開制度は、公文書管理制度と対を成す制度。
両者が強固なタッグを組むことで、日本の公文書管理はようやく軌道に乗ることとなります。

ただ残念なことに、この情報公開制度もまた、不十分なまま施行されているのです。

情報公開制度についても、抜け落ちたポイントは公文書管理制度と同じ。
すなわち、情報公開対象情報のあいまいな定義と、恣意的に解釈できる公開対象情報の範囲。
根幹を成す情報公開法は、議論を煮詰めずに法施行してしまっています。

日本の公文書管理制度は、あってないようなものだと言わざるを得ません。

そんな穴だらけの情報公開法には、公文書管理法には見られない特有のミスがあります。
実は、このミスによって、情報公開法は当初の性質すら変化してしまっているのです。

それが、情報公開法の目的にあたる考え方。

情報公開をめぐる動きは、政治や行政の度重なる腐敗に対するものとして生まれました。
国民は、官僚の粗相の経緯が分かるものの情報公開を求めていきます。
主権者である国民が行政を監視することは、むしろ健全な社会の在り方でしょう。

この「知る権利」は、国民の新しい権利として注目されていました。
しかし、法律上明文化されたものはありません。
そのため、「知る権利」のための法律として、情報公開法の制定が求められていったのです。

情報公開制度については、国に先んじて地方公共団体が条例を制定してきました。
この動きもあって、国もまた本格的に法整備を行うことになったのです。

けれども、当該法の審議会では、当初の理念と異なる方向で議論が進んでいきます。

情報公開法は、国民の「知る権利」に応えることに資することを第一の目的としていました。
そこから議論は一変し、結果、情報公開法から知る権利に関する明文規定が外されます。

審議会部会での議論では、知る権利を法律条文に明記することは憲法解釈上無理と判断。
そして、情報公開制度の核心は、政府の責任ある行政対応を確保するためのものだとします。
責任を確保するため、行政の透明性及び保有する情報の公開性を目指すというのです。

こうして、情報公開法は知る権利の法律条文での明記を断念。
代わって、政府の説明責任を果たすための制度だと、趣旨をすり替えた法律が出来上がります。

「知る権利」から「アカウンタビリティ」への移行。
これもまた、国民に対する裏切り行為だといえるでしょう。

著者は、この法律の目的のすり替えが深刻な問題を生んでいると批判します。
これは政府が説明責任を果たすためのもので、国民の知る権利に応えるものではないのです。
少なくとも、法律の目的を明記した情報公開法第1条はそう読める記載をしています。
第1条の主語は国民ではなく、政府なのです。

要は、どこまで説明責任を果たすか決めるのは、政府だということ。
国民が真に知りたいことは不開示か、開示されても黒塗りでびっしりでしょう。

こんな制度が健全なものだとは到底思えません。
そして、この不徹底な制度もまた、旧態依然とした役所の内側で作られたもの。

本書は、閉鎖的な行政機構の闇を、再三にわたり注意喚起しています。

政権への権力集中化

本書は最後に大きく、現内閣の暴走について解説しています。

現安倍政権もまた一貫して、「政権主導」の行政を掲げてきました。
その取り組みとして、首相は内閣官房の組織を拡大強化。
所管省庁をまたぐような、広範囲にわたる問題に当たる部署を数多く設置しています。

さらに、内閣官房に内閣人事局という部署を新たに設置。
部長職以上の高級官僚の人事権を一手に引き受けることとなりました。

また、政府のスタッフ機関である内閣府も強化。
直属の政策会議を設置しています。

このように、人員と権限を官邸まわりに集中させている現内閣。
当然、政治家と官僚の距離は一層縮まります。

今までは、各省庁は自らの省益を最優先に考え、しばしば内閣に反発することもありました。
しかし現在、幹部人事権を握っているのは内閣官房です。
波風立てず穏便に出世したい官僚にとって、内閣に盾突くメリットはありません。

こうして官僚たちは、政権の意向に同調していきます。
彼らは批判的な姿勢を捨て去り、結果として政治家に忖度することとなるのです。

ところで、内閣が行ってきた権力の集約化は一概に否定されるものではありません。
政と官の連携(というより同一化)は、迅速な意思決定を可能とするでしょう。

ただ、政権主導の行政は、方針を打ち出す指導者によっては暴走する可能性もあります。
言い換えれば、政権のリーダーである内閣総理大臣の資質が肝心なのです。

日本の政治機構が民主主義的に作られたものであることは言うまでもありません。
我が国を率いる者は、民主主義政治体制を順守することが求められます。

一方、現在の安倍政権は民主主義政治体制を順守しているといえるでしょうか。

人員と権限を集中化した内閣官房は、自らの政治的志向を具体化するための装置。
現政権が作り上げた政権主導体制は、暴走状態にあるといって差し支えないでしょう。

官僚の牙を抜き、都合よく政治を動かすことだけに執心する政権。

本書はあらためて、現在の政治の腐敗に対する警鐘を鳴らしてくれます。

おわりに

この世の中はますますオープン化が進んでいます。
良くも悪くも、SNSなどで見られるように、相互監視社会化しつつあるのです。

この時代に逆行するかのように、日本は権威主義的な政治思想に回帰しつつあります。
併せて、今なお何も変わろうとしない行政機構。
もしかしたらこの国は、とんでもない方向に向かっているのかもしれません。
いや、もしかしなくても、そうなのでしょう。

最も問題なのは、政治や行政が置かれた環境が、この時代に国民の側から見えない点にあります。
見えないどころか、こちらからアプローチする手段もありません。
勝手に物事が進んでいくあの感覚は、なんともやりきれないものです。

とにかく、私たちは引き続き批判の目を養っておかなければなりません。
暴走する政権に国民が乗っかってしまった時こそ、この国は終わりを迎えることでしょう。

著者は本書を通じて、政府や行政のみならず、我々国民にも警鐘を鳴らしているのです。


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